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諸版に注目することの意義はどこにあるかということですが、著者は初版に対する批
判を受けて、また社会的な変化を踏まえて、初版に修正や追加をすることがよくありま
す。スミスの『国富論』について言うと、それは一つではなく、第二版以降の違ったも
のがあるということです。第三版などはスミス自身によって決定版とされています。こ
うなると、著者の真意を知るにはどうしても初版以降の諸版を読むことが必要となるの
です。さらに著者の没後、どこの誰によって編集され、幾らで何版まで出されたか、あ
るいは何語に翻訳されたかを調べていくと、その本の受容のされ方がわかっていきます。
以上のことはスミスの本だけでなく、どの学者のものについてもいえることなのです。
マルクスは読者に『資本論』はドイツ語版だけでなく、フランス語版をもその独自な科
学的価値のゆえに参照を求めていました。
現在、古典は原本でなくても、フィルムやコピー等で読むことができます。しかし、
まだ本に優る見やすさを提供してくれる機械は発明されていません。また、コピーでは
原本のような緊張感を読者に与えることはありません。それに原本は思いがけないこと
を発見させてくれることがあります。キャンセルページといって、本の印刷段階になっ
てある頁が切り取られ、別の訂正された頁に差し替えられることがあります。その頁を
調べることで、実は理論的な変更がなされていることがわかり、研究上の重要な問題提
起につながることもあるのです。こういうことは原本でないとわからないことで、文献
学的研究もばかにならないのです。展示されているスミス・コレクションも注意して見
ると、いくつか興味深いことを教えてくれます。
戦前の小樽高商の手塚寿郎はヨーロッパ留学中に食費の節約までして、フランス近代
思想の本を熱心に集めました。その手塚文庫には19世紀前半の劇場のチケットまで紛
れ込んでいて、研究者に言わせると、本国の国立図書館に行くよりも小樽に行った方が
人をわくわくさせるのです。手塚のような先人のおかげで、我が国の研究者は欧米の本
を読むことができるようになり、しかもさらに輸入紹介するだけでなく、それらを日本
の文脈のなかで自分なりに消化することで輸出科学としてきました。このスミス・コレ
クションを読んで自分のものにするのも、われわれ読者なのです。