阿部 喜任

あべ よしとう(通称:友之進、号:檪斎)
文化二年(1805)-明治四年(1870)

本草学者、医師
阿部将翁照任の孫、本草学者賢任の子として江戸に生まれる。
文化元年(1803)、岩崎潅園の又玄堂に入門する。
曽占春(薩摩藩医師)の門にも学び医業につくが、享保期に幕府の採薬吏であった曽祖父照任の業績を範として阿部家復興のため本草学研究に打ち込んだ。
本草書を中心に多くの著書を著しているが、天保元年(1830)には「聯珠詩格名物図考」草部二巻二冊がはじめて刊行された。
翌年には師である潅園の著作「本草図譜」原図模写を行っている。
天保八年(1838)には潅園の後を継いで「草木育種後編」を著している。
著作は本草学に関するものを中心としながらも「万国全図」(天保九年、1839)、「絵入英語箋階梯」(慶應三年、1866)、「英吉利文典」(慶應三年、1866)など多岐にわたっている。
それらは幕府の駒場薬園や医学館での業務にかかわり、文久年間には無人島(小笠原諸島)開拓に医師として赴いたこと等により生み出されたともいわれている。
また、東條琴台(漢学者)の門人でもあった檪斎は書画もたしなみ、たくさんの文人墨客と交流をもち、詩人としての一面も併せ持つという多才な人物であった。





伊藤 伊兵衛 (政武)

いとう いへえ(まさたけ)
寛文七年(1667)-宝暦七年(1757?)

江戸・染井在住の植木屋 五代目伊兵衛
伊兵衛という名は、染井に居住する植木屋が代々襲名している名である。
初代伊兵衛は伊勢国津藩主藤堂家出入りの露除で、冷たい露から植物を守る仕事をするかたわら、不要となった植木・草花類を自分の庭に持ち帰り栽培を続けることでいつからか植木屋となったといわれている。
五代目伊兵衛(政武)は、霧島から取り寄せた躑躅の生産者として躑躅・皐の図解書「錦繍枕」元禄五年(1692)や総合園芸書「花壇地錦抄」元禄八年(1695)を著した祖父の三代目伊兵衛(三之烝)とともに目覚しい活躍を見せ、同業者とともにこの地の園芸発展にも尽力し、染井の名を世間に広く知らしめるものとなった。
その庭園は約6000坪といわれ、随所に地植えや鉢植の植物が配され、躑躅はもとより唐楓などの栽培種の見本園的性格を兼ね備えたものであったという。
菊岡沾涼による「続江戸砂子温故名跡史」 享保二十年刊(1735年)には、江戸一番の植木屋と称されている。
その絶頂期に浮世絵師、近藤助五郎に描かせた「武江染井翻紅軒霧島之図」には宣伝目的で旬の躑躅を中心に、人々が庭園を拝観する様子が描かれており、同業者はもとより将軍も訪れたという庭園を偲ばせるものとなっている。
また、草花類を収録した図譜「草花絵前集」元禄十二年(1699)をはじめとして、三代目伊兵衛(三之烝)の業績である躑躅・皐の栽培を継承し、「花壇地錦抄」の続刊刊行(「増補地錦抄」「広益地錦抄」「地錦抄附録」)を行った。
一方、壮年期より独自に楓の栽培・普及を手がけ、祖父が「花壇地錦抄」でとりあげた十三種の楓をもとに、上方をはじめとする各地より取り寄せた楓をあわせた合計百品種を収載した三部作「古歌僊楓集」「新歌仙楓集」「追加楓集」を著し、普及に努めている。
五代目伊兵衛(政武)の著作に共通する、手書き図版に植物の特徴、栽培方法を記すやりかたは、これまでの著作物にない、図鑑としての性格を指向するもので、生産業者や愛好家への正確な情報の提供に配慮したものと考えられる。
さらに、三部作の楓シリーズにおいては、名の由来となる和歌を収載することで、文人好みの奥ゆかしく格調の高い見識さえ感じられることは特筆されよう。
注)五代目伊兵衛(政武)を三代目伊兵衛(三之烝)の子とする説もある





岩崎常正

いわさき じょうせい(通称:源蔵、号:潅園)
天明六年(1786)-天保十三年(1842)

本草学者
江戸下谷三枚橋辺の徒士屋敷に生まれ、幼少より植物に興味を示した。文化六年に僅か三ヶ月間であるが小野蘭山に入門している。
文化十一年、若年寄・堀田正敦の命で屋代弘賢を中心に編纂がおこなわれた「古今要覧稿」植物部の編集及び図画作成手伝いを命ぜられ、古今事物を考証した百科の制作に才能を発揮している。
蘭山最晩年の門人として私塾を起こし本草学を講義し、阿部将翁照任の曾孫、檪斎喜任を筆頭として多くの門人を輩出している。
著作として最も有名なものは文政十一年に完成した「本草図譜」(全九十二冊)である。
いわゆる我が国初の植物図鑑としての位置付けを持つ大著であるが、その刊行は死後の弘化元年まで続く長いものとなった。
天保十二年(五十六巻)までの納本先を記した「本草図譜記」には将軍家、湯島聖堂、医学館ほか,三十三名に及ぶ大名が記載されている。
明治期にも需要は高く、大正・昭和にいたっても再度復刻されている。
潅園は本草学大家としての一方で「草木育種」(文政元年刊行)を著している。
その特色は、朝顔や菊など流行の園芸植物について、それぞれの愛好家集団(連)が秘匿していた技術を総合し、いわゆる園芸ハンドブックとしての形態により、初めて書物として公開したことである。
「草木育種」の誕生は、潅園が本草学講義において身分を区別することなく、文字通り大名から植木屋にいたるまで、様々な人たちとの交流によりなしえた業績のひとつと考えられている。ここで明らかにされた園芸技術(唐むろ)と手法(接木)は明治期まで重用されており、再版も都度行われてきたという園芸書のベストセラーである。
なお、遺漏分について天保八年、門人の一人である阿部檪斎喜任が「草木育種 後編」を著している。





灌河山人

かんがさんじん (通称:吉田屋新兵衛、号:灌河、売書翁、百川堂)

狂歌師、出版業
文屋茂喬(文廼屋、文徽堂)京都 三条通り麩屋町の書肆。
狂歌の書物出版を生業とした。
自身も得閑齋社中に学び初代得閑齋亡き後は二代を襲名し文屋社中を興した。
著書には「狂歌画賛集」、「狂歌手毎の花」(文化八年)、「増補狂歌類字名所集」、「百女賦」(文化十一年)などがある。
「橘品類考」奥付には皇都書肆 吉田新兵衛と記載があり版元であることがわかる。
同時に、この書はからたちばなが投機対象となった僅か数年の渦中に登場していることから、ブームにあやかって短期間に刊行されたものであろう。
序文は桂庵木村俊篤撰、本文橘総論には灌河山人誌(かんがさんじんしるす)との標記が見られるが、おそらくは同一人物であろうかと推察される。
なお、本文のタイトルは?藤果品類考(ていとうかひんるいこう)であるが、題箋、奥付には橘品類考と記載がある。
(日本古典籍総合目録では?藤果品類考は別名として扱われ、橘品類考を統一書名としている)





幸 良弼

こう よしすけ (本名:跡部 良弼 あとべ よしすけ)
寛政十一年(1799年)-明治元年(1869年)

幕政家
水野忠邦の実弟であることにより江戸幕府大目付、勘定奉行、町奉行を歴任。
嘉永・安政年間には再び変化朝顔が流行し、銘品を集めた彩色図譜が数多く刊行されるものとなった。
自らを杏葉館と号し、朝顔栽培に武家の代表格として名をはせた旗本である鍋島直孝は、同じく町奉行を勤めるかたわら栽培育種と広範な活動を展開しているが、幸 良弼もそれに勝るとも劣らず朝顔への深い傾倒を見せている。
良弼は、朝顔の栽培から出版までを手がけた植木屋の成田屋留次郎と組み、自らを撰者としてこれに加わり「三都一朝」、「両地秋」、「都鄙秋興」を刊行している。
図譜には、谷文晁らに師事した田崎草雲や野村文紹という本草学にも通じた画人を起用することで、より写実的な表現をもたせている。
三冊目に刊行された「都鄙秋興」では、取り上げた朝顔の作出者が江戸、大坂、京都を中心とした「三都一朝」に比べて地方、すなわち鄙の割合が明らかに増加することがわかり朝顔流行の地方伝播をうかがい知ることができよう。





秋水茶寮痩菊

(本名:与住順庵  号は痩菊)

医師
与住順庵は土浦の出身で浅草天王寺横町に住み、本業は医師であるが薬草栽培技術に熟練し、自らも朝顔脆品の栽培を行うなど日々栽培技術の研鑽に励んでいた。
江戸における変化朝顔の流行は文化・文政年間であったが、それまでは文人、趣味人によりつつましやかに栽培が行われていた。
一方の上方では、朝顔を相撲になぞらえて貴賎や僧俗を問わず、その手になる逸品を持ち寄って勝敗を決するというにぎやかな品評会が行われ、流行に一層の拍車がかかるものとなっていた。
与住順庵は文化十四年、浅草寺梅園院で「花合わせ」と称し、上方にならって品評会を主催し、出品作をもとに図譜「丁丑朝顔譜」(文政元年四月)を刊行している。
序文を寄せた太田南畝は高名な狂歌師で、まさに文人の代表格である。流行の朝顔に興味を抱き、栽培にも長けていたことを物語っている。
江戸の「花合わせ」は記録では三度行われたといわれているが、番付を作成して生産者を競わせることにより、その流行は明治にも及んでいる。
また、与住順庵は当時の稚拙な栽培技術を見かねて「朝顔水鏡前編」(文政元年)を刊行し朝顔栽培技術普及をもはかっている。
これは明治時代にも再刊されているが、後編、続編にあたるものは残念ながら存在が認められていないといわれている。





菅井 菊叟

すげい きくそう(池田英泉 別名:湲斉英泉、亭号:一筆庵)
寛政二年(1790)-嘉永元年(1848)

絵師のちに文筆業
標題紙には菅井菊叟の名が記されているが、本当の作者は浮世絵師の池田英泉であろうと推測される。
英泉は江戸市中、星ヶ岡に下級武士松本政兵衛茂晴の子として生まれ、後に父の旧姓である池田姓に復している。(俗称:善次郎 本名:義信)
彼は生涯において最も多感な時期を、様々な経験をつむことで、自らの生業の形成につなげてきた。
まず、十二歳より狩野白桂斉のもとで画を学んでいる。短期間ではあるが、狩野派の流れを汲む絵師と呼ばれるに足る技巧をここで身につけている。
次いで元服とともに仕官するが、まもなく上役とのいざこざにより職を辞している。
浪人となった彼は、その後つてを頼り狂言作者見習いとして初代篠田金治に師事している。この経験は後年に生業となる文筆の才能を培うためのよい契機となったことであろう。
二十歳の時に父が亡くなると、生計のために本格的に絵筆を執ることを考え、菊川英山の門人となった。
英山宅に住まいし、美人画を学ぶ一方で近在の葛飾北斎にも私淑して技を磨いた。
活躍の場は艶本、人情本など多岐にわたるが、いずれも妖艶な美人を描いている。
また、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」などの挿絵も請け負っていることでその名は今に伝えられるものとなっている。
天保の改革以後は取り締まりの強化された画業から文筆業へと方向転換をはかり、「花街鑑」、「无名翁随筆」など洒落本、滑稽本執筆を行っている。
「菊花壇養種」は英泉の最晩年に刊行されており、栽培の基本から奥義にいたるまでを菅井菊叟という架空人物の経験談を織り交ぜながら詳細に記しているようにも思える。
菊の種類、栽培、根分、害虫、種のとり方、実生種の蒔き方など、菊のすべてにわたり記されており、およそ栽培を生業としない文筆家、絵師の手になるものとしては異色の園芸書の誕生となった。





橘 保國

たちばな やすくに(号:素軒)
正徳五年(1715)-寛政四年(1792)

絵師
絵師橘守國(号:素軒)の子として大坂に生まれる。
幼少より父に師事する。
父の守國は、鴨沢探山に師事した狩野派門下であったが、後に絵手本刊行を生業とした。
絵手本は画業を志す人を対象とした習画帳で、守國は自然や建造物、風俗、歳時、動植物にわたり精巧な絵を用いた。
子の保國も父の手法を取り入れつつ、対象とする植物を山野から庭植えのものまで幅広くとりあげている。
また、それぞれの植物を和漢典籍により入念に調べ上げ、性状や形質を適格にとらえた精細な描画に加え、特徴にもふれた記載を残している。
「絵本野山草」五巻は宝暦五年(1755)に刊行されている。
これは当時流行の奇品を収載したカタログではなく、画学生のための絵手本となるべく、種々の花を正確に描画したものである。
同じ版でも後の方に刷られたものでは摩滅により、細かなニュアンスが十分に伝わらないきらいがあるが、今回画像電子化に供するものは比較的早期の刷りと思われる。原画の繊細な趣を十分に捉えながら、植物の特徴を今に伝えている。





長生舎主人

ちょうせいしゃしゅじん (本名:栗原 信充 くりはら のぶみつ)
寛政六年(1794)-明治三年(1870)

幕臣、奥右筆、故実研究家
幕府の奥右筆を務めた父の同僚、屋代弘賢とその知己である平田篤胤から国学を学ぶ。
また、柴野栗山から儒学を学ぶ。
故実研究家として活躍し、特に武具、馬具類の著作を残している。
幕命により屋代弘賢が編纂していた「古今要覧」の調査に加わり、諸国を巡っている。
長生舎主人という園芸名を用いて「金生樹譜」シリーズ(「金生樹譜 別録」天保元年(1830)、「金生樹譜・万年青」天保四年(1833)、「松葉蘭譜」天保七年(1836))を出しているが、各地の愛好家間に勃興した植物への投機に著者は多大な興味を抱いていたように著作からも推測される。
実生により変異株、いわゆる奇品を生じることがある万年青は、これまでも親しまれてきた古典園芸植物であるが、当時にわかに登場した松葉蘭に至っては、古生代から存在する特殊な植物とはいえ、異様な姿そのものがすでに奇品と呼ばれるに相応しい。
奇品流行は、稀少さと観賞価値の生み出す相乗効果により瞬く間に過熱するものとなった。
愛好家が育てた奇品がとてつもない金額で取引されている渦中において、主役としての植物を独自の視点で捉え直し、客観的にまとめあげたものが「金生樹譜」シリーズである。
特に「金生樹譜 別録」は、各地の銘木といわれた松、柳、梅についてその伝承や性状を記すことからはじめ、繁殖方法やそれに必要な資材の培養土や道具類を詳述し、さらには鑑賞価値を高めるための盆栽鉢や棚を図示紹介しながら、「花鏡」に記された新しい技術として霜よけや保温、生育促進を目的とした室(むろ)の効用まで広範な内容となっている。 





成田屋 留次郎

なりたや とめじろう (本名:山崎留次郎 やまざき とめじろう)
文化八年(1811)-明治二十四年(1891)

下谷の植木屋
成田屋留次郎は、浅草の植木屋の次男として生まれたが、故あって弘化四年に下谷の坂本村字入谷に移り住み、下谷の植木屋といわれた。
成田屋という屋号は、歌舞伎俳優・八代目市川団十郎のファンであったことに由来しているという。
本業は棒手振りといわれる、市中を売り歩く植木商だが、商売のかたわら手がけるようになった出版が本業となり、数多の園芸書出版に携わるようになった。
また、趣味として始めた変化朝顔の品種改良、普及に情熱を抱き、自らを朝顔師と名乗るほどに嘉永・安政期の斯界に貢献した人物である。
入谷朝顔界の重鎮として明治初期にかけて自らも変化朝顔を作り続け番付に上っていた。
主な出版物は幕政家、幸 良弼を撰者として作られた「三都一朝」、「両地秋」、「都鄙秋興」である。
変化朝顔の彩色図版に作出者名、その所在と花の特徴が記されていることがそれぞれの冊子に共通しており、花合わせや番付といった朝顔流行を過熱させるための商品カタログとしての位置づけを持っていたと考えられる。
種の供給元としても成田屋留次郎は中心的な人物であるが、これらの出版物を通して変化朝顔の作り手の中心は三都(江戸、大阪、京都)の文人から、次第に地方(鄙)の文人へと拡大されていったことが三部作掲載品の変化から読み取ることができる。





繁亭 金太

はんてい きんた (本名 増田 金太 ますだ きんた)
寛政五年(1793)-文久二年(1862)

青山住の種樹家 (うえきや)
青山権田原の植木屋、石井弥助の子として生まれるが、増田家に養子に入り姓を変え、後に家業を継いで植木屋となった。
「草木奇品家雅見」は金太の代表的な出版物として、師匠格である水野忠暁の助言をもとに文政十年(1827)に刊行された。 
その内容は、金太自らが撰者として収集家の自慢とする奇品(斑入り、ねじれや帯化というような、他と異なる形質をもった植物)ばかり約500点を掲載している。
図譜は大岡雪峰を中心として関根雲亭、石川碩峯という画家による本格的なもので構成されている。
コントラストを強調したモノトーンによる葉の表情には独特の雰囲気が醸し出され、江戸の粋やエスプリさえ今に伝えている。
金太は当時、大名屋敷や旗本を頻繁に出入りし、奇品の仲介により莫大な利益を得ていた。
穿った見方ではあるが、「草木奇品家雅見」は奇品愛好家相手に商売を行っていた、植木屋金太プロデュースによる奇品カタログという位置づけにあるかもしれない。
武家はもちろん、町人にも広まった奇品流行に伴い、本書は広く日本全国に流布されており、現在でも各地域に残されているといわれている。
質素倹約を旨とした天保の改革により金太は財産を没収され、ところ払いを命じられた。
しかし、幸いにも奇品のとりもつ縁により紀州徳川家に雇われる身となることで、以後も本来の生業である植木屋をつづけることができたといわれている。





松平 定朝 (菖翁)

まつだいら さだとも (しょうおう)
安永三年(1773)-安政三年(1856)

旗本、花菖蒲の育種家
松平定勝の四男、松平定実の系統として松平織部家六代、定寅の長男として生まれる。
幼少期より父の影響で草花に親しみ、とりわけ花菖蒲の栽培は一生涯続いた。
自ら作出した三百にものぼる品種は後に菖翁花と呼ばれ、自著「花菖蒲花銘」及び「菖花譜」に記されており、このうち「昇竜」、「雲衣裳」、「仙女の洞」、「五湖の遊」、「虎嘯」、「龍田川」、「霓裳羽衣」、「宇宙」など二十品種あまりが現在も栽培されている。
父の死により寛政八年(1796)に安房国朝夷郡、長狭郡内二千石を相続し、小普請から出仕して書院番、中奥番を経て西丸目付に昇進。
文政五年(1822)には禁裏附として京に赴き、文政十年(1827)には京都西町奉行となる。出仕の間も各地にて花菖蒲培養を続け、京では天皇に献上している。
天保六年(1835)小普請組支配となり江戸に戻り、翌年、子に家督を譲り隠居する。
生涯をかけた花菖蒲品種改良の歴史は、晩年自らの著作として残された。
弘化二年より「花鏡」を著し、嘉永年間より「花菖培養録」と改題してほぼ毎年改訂が繰り返されてきたといわれる。
写本は国立国会図書館に収められた四点をはじめとして十点程度が残されているといわれる。





水野 忠暁

みずの ただとし (号 逸斉、園芸名は御鉢植作留蔵(おはちうえつくるぞう))
明和四年(1767)-天保五年(1834)

幕臣 
江戸四谷大木戸に住まいし五百石を拝領した旗本であるが、幼少より植物への興味が強く、やがて植木屋が教えを請うほどの知識を有していたといわれている。
父守政が晩年に松の実生から出来た、葉先が雛鶴のように折れ曲がる奇品を愛好したことと似て、奇品(斑入り、矮化、異形)を愛好し、特に斑入り植物と万年青栽培に力を注いでいた。
「草木奇品家雅見」の撰者、青山の種樹家 繁亭金太の師匠としてのみならず、奇品愛好家の中心人物として活躍したと考えられている。
自ら三千種の奇品植物を収集し、鉢植として栽培、繁殖させ、当時の植物画家の第一人者、関根雲停にこれらを描かせて出版したものが「草木錦葉集」である。
これは名前の順に整理された1000種からなる世界にも類のない斑入り植物図鑑として文政十二年(1829)に私家版が完成している。
「い~よ」三冊、「た~む」四冊の七冊が現存し、緒巻には栽培法、繁殖法の詳解を加えている。後続巻「う~ま」、「け~す」各三冊を合わせると約2000種の図鑑が出版予定となっていた。
しかし、忠暁の死や世情等により後続巻は日の目を見ることがなかった。まことに残念なことではあるが、斑入り植物に独特の価値感を見出したことで園芸史上に大きな功績を残している。



Copyright (c) Chiba University Library. All Rights Reserved.