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 ア ダ ム ・ ス ミ ス   年 譜 

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以下の年譜はスミスの学問的活動に関係するものを中心に編集してある。

千葉大学法経学部経済学科名誉教授 野沢敏治

    
1689年  イングランドで名誉革命が起きる。スミスによって批判される議会制的重商主義の諸政策がそろい、国家による上からの近代化が進む。
1707年 スコットランドはイングランドと議会を合同する。スコットランドはこれによってイングランドに政治面で吸収されるが、経済的には中下層階級が上層貴族階級の圧迫から解放され、イングランドの国内市場と植民地市場を得ることもあって発展していく。
1723年6月5日スミス、スコットランドのカーコーディで生まれる。父親アダム・スミスはカーコーディの関税監督官であったが、息子スミスの生まれる前に亡くなっている。その後、虚弱で病気がちのスミスは母親のマーガレット・ダグラスの手で注意深く育てられる。
1726年 スミス、3歳のときに母の実家があるストラセンリで放浪者によって誘拐される。だがすぐに連れ戻される。
1737年〜37年 町立学校の小学教育を受け、その後グラマースクールに通う。すでにこのころから生涯にわたる放心癖を示す。
1736年4月エディンバラ市の警備隊長ポーティアスがフリー・トレーダー(密輸業者)のA.ウィルソンを処刑する。9月、それに反発した暴徒がエディンバラの監獄を襲ってポーティアスを処刑する。
1737年11月スミス、14歳でグラスゴー大学に入学する。グラスゴ−大学は進取的であって、スミスは自然法学を教えていた自由神学的なフランシス・ハチスンから大きな影響を受ける。
1740年7月スミス、スネル奨学金を得てオクスフォードのベリオル・カレッジに入学する。イングランドへの旅の途中でスコットランドとの経済格差を実感する。オクスフォードではその古い学問と教育に飽き足らず、自分で勉強する。ある時、ヒュームの『人間本性論』を読んでいて、大学当局から叱責される。
1745年 ジャコバイトの反乱が起きる。翌年4月のカロデンの戦いでスコットランド高地人は敗れる。スミスは反乱の背景にあるスコットランド・ナショナリズムを理解するが、スチュアート朝の復興には反対する。
1746年8月スミス、オクスフォード大学を中途退学して故郷に戻る。
1748〜51年  スミス、エディンバラで3回、修辞学と哲学史、法学の公開講義をする。
1748年 ジャコバイトの詩人ウィリアム・ハミルトンの『折々の詩集』を編集し、序文を書く。
1751年1月スミス、グラスゴー大学論理学教授となる。伝統的な三段論法に代えて新しい修辞学・文学を講義する。10月からは自然法学と政治学を合わせて教える。
1752年4月スミス、同大学の道徳哲学教授となる。クラスでは自然神学・倫理学・法学・経済学を講義する。倫理学は後の『道徳感情論』に、法学の一部と経済学は後の『国富論』となって現れる。
 9月ヒュームが『道徳・政治論集』の新版を準備し、『イングランド史』の執筆を開始する。スミスの意見を聞く。
1754年5月スミス、エディンバラの選良協会に参加する。英仏間のヨーロッパでの争いと並行して新大陸でフレンチ・インディアン戦争が起きる。
1755年1月スミス、このころ関係者とともにグラスゴー文学協会をすでに設立している。グラスゴーの経済学クラブで6年前の自分のものだとして「不変のテーマ」を提出する。彼はそこで「自然的自由」の思想を表明する。
スミス、『エディンバラ評論』第1号に書評「サミュエル・ジョンソン『英語辞典』」を載せる。品詞の起源とその使い方について配列を考えて作成すべきだと批判して、butとhumourについてそのモデルを示す。
 7月スミス、同『評論』第2号に「エディンバラ評論の創始者への手紙」を載せる。スコットランドに限定せず、フランスの新しい学問状況(百科全書、ルソー、ビュッフォン、レオミール等)に注目するように促す。
1756年7月英仏間の7年戦争が始まる。
 12月エディンバラでジョン・ホームの「ダグラス」が上演される。同年にはヒュームがスコットランドの教会から攻撃される。
1757年2月ヒュームの『四論説』が出版される。その中の自然宗教史の部分がウォーバートン派の牧師から批判される。
 5月民兵法が発効する。それに反対する一揆が起きる。
 6月プラッシーの戦いでイギリス東インド会社軍がベンガル太守とフランスの軍隊を破る。
1758年12月ケネーの「経済表」(原表)、ヴェルサイユ宮殿で印刷される。
1759年4月スミスの『道徳感情論』初版、刊行される。それは成功し、Ch.タウンゼンドがスミスをバックル―侯爵の家庭教師にしようと考える。その後、スミスは自然法学の研究に重点を移す。
1760年 ジョージ3世即位し、名誉革命体制に挑戦して親政の企図をもつ。
 12月『道徳感情論』第2版が刊行される。
1761年 スミスの「言語の最初の形成、および初期言語と複合言語のさまざまな特性に 関する考察」が『言語学論文集』に載る。
 9月スミス、ロンドンに出てS.ジョンソンと会う。ジョンソンとはあまり気が合わない。
1762年12月ロッキンガム・ホイッグ党が誕生する。
1762―63年 学生がスミスの講義を筆記する。『法学』『修辞学・文学』
1763年4月国王が議会でフランスとの和平についてスピーチするが、それが大ピットやJ.ウィルクスを怒らせる。国王の勅語を批判したノース・ブリトン第45号が発行されるが、関係者が反逆罪に問われ、一般逮捕令によって逮捕される(ジョン・ウィルクス事件)。
1763−64年 スミスの講義が学生によって筆記される。別の『法学』
1764年2月スミス、バックル―侯爵の旅行つき家庭教師として大陸に渡る。
 3月トゥールーズに到着し、当地に18カ月滞在する。
 4月本国で砂糖条例可決される。
 7月スミス、A bookを書き始める。
1765年8月イギリス東インド会社がムガール皇帝から現地での徴税権を与えられる。
 スミス、ジュネーヴにヴォルテールを訪問する。
 10月ダグラス訴訟の証拠を集める。
 12月スミス、パリに移る。啓蒙主義者や重農学派の人々と交わる。後者のサークルからスミスはケネーの弟子であったとみられる。
1766年1月バーク、本国下院で演説し、印紙税法の撤廃を主張する。
 8月バックルー侯爵、食中毒にかかり、ケネーに診てもらう。
 11月スミス、ロンドンに帰国する。スコットランドに帰るまで、同地でタウンゼンドと予算案について検討し、シェルバーンにアメリカ植民地問題の解明に役立つような古典古代の植民地の統治の仕方について調査した結果を伝える。また南太平洋の大陸発見航海のためにダルリンプルを適任者として薦める。
1767年 ジェームズ・スチュアート『経済学原理』刊行。
 5月スミス、故郷のカーコーディに帰る。以後、『国富論』のための研究に沈潜する。その後は「ペネロ−プの織物」のような進行状況が続く。この間、スミスは出不精であったが、ヒューム等と『国富論』の内容について意見交換をしていく。
『道徳感情論』第3版刊行される。付録に「言語起源論」がつく。
 6月タウンゼンド歳入法案、議会を通過する。
 9月穀物が凶作で価格が暴騰し、民衆暴動が発生する。政府、穀物の輸出を禁止する。
1768年5月クック、太平洋の探検航海に出発する。
1769年 ワットの蒸気機関が実用化される。
1770年 バークの『現代の不満の原因』が出版される。
1772年6月エア銀行が土地改良を助けるために作られていたが、取付に会い、支払いを停止する。スコットランドで金融恐慌が起きる。スミス、その救済に乗り出す。
 7月スミス、他の者とともに、東インド会社の特別監督委員に推薦される。実際には委員にならなかったが。
1773年4月スミス、ヒュームを遺著(天文学史の著作を含む)管理人に指定して、ロンドンに出る。そこでアメリカ問題と東インド会社問題の進展を追いながら『国富論』の出版にむけて最後の推敲を重ねる。
 5月東インド会社の組織とインド経営を統制する規制法が成立する。
 12月ボストン茶事件、発生する。
1774年3月W. ヘースティングス、ベンガル総督に就任する。
 9月スミス、スコットランドの医学学位濫発問題に対する規制の動きに市民的自由の立場から反対する。
 11月バーク、ブリストル市民に弁明演説をして同市選出の下院議員となる。
1775年4月アメリカ植民地の独立戦争はじまる。
1776年1月今度はヒュームがスミスを遺著管理人に指定する。
 3月スミスの『国富論』初版(正式の題名は「諸国民の富の本質と原因についての研究」)、出版される。書評や紹介・批判が数多く出る。大学、教会、商人、国民軍を怒らせるが、成功する。その後、『国富論』が政府の収入改善案にヒントを与えていく。
スミス、故郷に戻ってスコットランド関税委員に任命されるまでの間に模倣芸術論に取りかかる。
 7月アメリカ、独立宣言を公布する。
 8月ヒューム、亡くなる。
1777年3月スミスの「ウィリアム・ストレーアンへの手紙」がヒュームの『自伝』につけて発表され、死を迎えたヒュームの従容とした態度が公表される。それが教会の反発を呼ぶ。
1778年2月スミス、スコットランド関税委員の辞令を受け取る。閑職であったが、精勤して職務に励む。重商主義の関税改革を実践するようなことはしない。『国富論』改訂第2版、出版される。
1779年10月アイルランドとの自由貿易の問題が起きる。政治家からスミスの考えが求められる。
1780年2月C.ワイヴィル等によるヨークシャー運動が反政府請願を下院に提出する。
 3月ペンシルヴェニア議会が黒人奴隷制を廃止していくことを法制化する。
 6月ゴードン事件、発生する。「国王と教会!」が叫ばれる。
1782年バークの経済改革。
1783年3月スミスのイギリスとイタリアの詩の近似性についての論文草稿。
 5月ウェストミンスター議会、アイルランド議会に立法権の独立を認める。
 9月パリで対米講和条約が締結される。
 12月小ピット内閣成立。
1784年5月スミスの母親、亡くなる。
 8月ピットのインド法成立する。
 11月『国富論』第3版、大幅に改訂増補のうえ出版される。著者自身によって決定版とみなされる。同時に既存の版の読者のために「第1版および第2版への追加と訂正」が別冊として付けられる。
1785年3月ピットのアイルランド提議を一契機として圧力団体の全イングランド製造業会議所が設立される。
 11月スミス、スコットランドの商工会議所の行動に疑念をもつ。修辞学・文学・哲学の歴史と『法学講義』の前半部分との2つの著作の準備はできているが、完成のための時間はない。
1786年9月英仏通商条約成立。その執行がなされるまでに全英商工会議所の弱小産業部門が反対を表明する。
バーンズ『詩集、主としてスコットランド方言によって』出版される。
1789年7月パリのバスティーユの監獄破壊のニュースがエディンバラに届く。
 11月R.プライス、「祖国愛について」を説教する。
1790年2月バーク、議会でフランス革命と国民議会に反対する演説を行う。
1790年5月『道徳感情論』第6版が大幅に改訂増補されて刊行される。
 7月スミス、原稿類を友人たちに焼却させて、17日、亡くなる。
1795年 遺稿集『哲学論文集』刊行される。
(1792年 第1回対仏同盟戦争はじまる。同年、ロシアのラクスマンが大黒屋幸大夫をつれて根室に来航し、通商を要求する。)

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